文化遺産保護の歴史
・戦争による経験から20世紀初頭に「文化財保護」の考えが生まれる。
"人と同様に、文化財も守られるべきである"
・しかし、第二次世界大戦やスペイン内戦で、国際条約が存在しながらも、多くの文化財が失われた。この経験から、ユネスコは終戦後、ハーグ条約を発展させ、多くの文化遺産の保護のための条約と勧告を行う。文化財の赤十字憲章と呼ばれる「ブルー・シールド」が生まれたのもこの頃である。その後、世界遺産条約が誕生。
歴史を振り返ると、戦時の文化遺産の赤十字が平時の仕組みとして広がった経緯がある。今では、不動産だけでなく、民俗遺産・無形文化遺産・水中文化遺産など、多様化してきている。
・文化遺産の国際ルールを確立しようとする運動は古来、ヨーロッパが盛んに行ってきた。フィレンツェ条約などの法規を作り、どれも一般化している。
世界遺産誕生
・世界遺産の考え方そのものは、1954年のハーグ条約からその原型を見て取れる。
・世界遺産は政治的なものでなく、全世界の人々がその責務を負うというニュアンスが含まれている。(×international ○world)
・元々、世界遺産が生まれる前から、その保護制度作りはユネスコでも行われていた。その本格的活動がヌビア遺跡保存キャンペーンといえる。
→アスワン・ハイ・ダム建設によって、アブシンベル神殿が沈んでしまうため、募金を募り、移築工事が行われた。
その後も多くの救済キャンペーンが行われたが、救済方針の転換と(多くの拠出金を出す)先進国の疲弊から、この活動は幕を閉じる。しかし、この流れこそが世界遺産条約が生まれるきっかけになったことは確かである。
・世界遺産条約は、文化遺産と自然遺産をひとつの条約で保護することこそが最大の特異性である。まず、普通は文化と自然の遺産をひとつの保護することは不可能であり、現に日本も文化遺産は文化財保護法、自然遺産は鳥獣保護法・自然環境保全法などで守られている。
このように、世界遺産条約は大変ユニークな国際法であるとともに、新たな視点を導いてくれる。例えば、世界遺産登録のために必要な緩衝地帯(バッファー・ゾーン)の設定。これは、日本の文化財保護法にはないシステムである。
評価基準
・「顕著な普遍的価値」を示すための評価基準は、文化的景観への関心の高まりや、自然と人との関わりも留意すべきだとの見方から、若干の変更をされた。(2005年)
・負の遺産は評価基準(ⅵ)のみで登録されるケースが多い。原爆ドーム登録の際は、中米から慎重な意見が出ており、採決も棄権した。ユネスコも評価基準(ⅵ)のみで登録することを辞めにしたいと当時思っていたようで、原爆ドームが世界遺産に登録された翌年には、評価基準(ⅵ)のみで登録することを禁止している。
→しかし、西欧を中心に確立した評価基準では、西欧の物件には適切に評価できていたが、アジアを中心とする異文化の物件に対応できなくなり、(世界遺産の)地理的偏重が起きてしまう。
そのため、評価基準(ⅵ)の積極的な使用が次第に求められるようになり、再び改訂され、評価基準(ⅵ)のみでの登録が可能になった。(しかし、別の評価基準と合わせて登録されることが望ましい)
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次回に続きます。